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 アルフレッド コルトー

私の思いはひとりあの島に残るだろう

世界を代表するフランス人ピアニスト、アルフレッド・コルトーは晩年の1952年に念願の来日を果たし、日本各地で演奏会を開催。下関公演の際に宿泊した川棚のホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景に魅せられ、永住したいと思いました。コルトーは、当時の村長に厚島を買い取りたいと交渉。村長は、厚島に永久に住むのであれば無償で差し上げると快諾しました。集まった人々からは、島の名前は「孤留島(コルトー)」と命名することも提案され、コルトーは大喜びで「私の思いはひとりあの島に残るだろう」と言いました。帰国後も周囲の人に『カワタナの夢の島』の話を楽しそうにしていたそうです。その後、病に伏し、二度と厚島を見ることなく他界しました。  2003年10月、コルトーが設立したパリのエコール・ノルマル音楽院から川棚のホテルに1本の電話が入り、生前コルトーが周囲に話していた「カワタナで見つけた夢の島、厚島」と「孤留島」が再び結びつきました。  孤留島(厚島)の縁で江島潔下関市長と川棚温泉まちづくり協議会が2007年4月、パリ市のエコール・ノルマル音楽院を訪ね、アンリ・ウジェル校長とコルトーの息子ジャン・コルトー氏と面会しました。そして、日仏交流150周年にあたる2008年11月に再びパリで下関市とエコールノルマル音楽院とのパートナーシップを結ぶ調印式が執り行われました。現在下関市は、2009年の完成を目指して、川棚温泉に観光交流センター「川棚の杜」の整備を進めています。その施設内に造る音楽ホールを「コルトーホール」と命名する予定です。今後は音楽を中心として、幅広い文化交流が生まれることが期待されます。

 種田山頭火

花いばら、ここの土とならうよ。

川棚温泉の風景といで湯を心から愛した放浪の俳人、種田山頭火。昭和7年に川棚温泉を訪れ、100日ほど滞在し数多くの句を詠みました。山頭火は「川棚温泉は私の最も好きな風景だ。山裾を丘陵にめぐらせ地形において申し分がない」と称賛しました。また、「川棚は自分を最も落ち着かせてくれるところである。やはり自分はここに庵を結びたい。茨の花の白く咲くこの土。ここに死んで、このあたたかい温泉の涌く土に埋めてもらおう」と日記に綴り、「花いばらここの土とならうよ」という句を残しました。妙青寺の境内には「湧いてあふれる中にねている」の句碑があります。

 青龍伝説

青龍が見守る川棚温泉

大昔一大沼地だった川棚には巨大な青龍が棲んでいましたが、欽明天皇の時代に大地震があり亡くなってしまいました。里人は哀れに思い青龍権現として祀ると、温泉が涌出したと伝えられています。その後川棚温泉は三恵寺の怡雲(いうん)和尚によって中興されました。

 毛利御殿湯街道

御殿様が愛したなめらかな湯

川棚・豊浦町を通る赤間関街道は、江戸時代から城下町である萩と下関をつなぐ街道のひとつです。街道沿いの川棚には藩主であった毛利綱元の本陣や御茶屋が置かれ、湯治湯としての御殿湯もありました。街道沿いの各所は今も当時の面影が残り、歴史的風情を漂わせています。川棚温泉は「国土交通省・夢街道ルネサンス」で「毛利侯御殿湯街道」に認定され、温泉、歴史、自然の恵みを生かしたまちづくりがすすめられています。

 小野の小町の墓(豊浦町川棚中小野)

花の色は移りにけりないたずらに
          我が身世にふるながめせし間に

36歌仙のひとりであり、今から1100年前に恋に一生を捧げた情熱の佳人としてあまりにも有名な小町は、年をとってから都を去り、ここ小野部落で淋しく死んだといわれます。
名声に比べて小さい墓がそぞろあわれを誘います。

 山口県指定史跡 中ノ浜遺跡(豊浦町川棚下村)

響灘に面した弥生時代埋葬遺跡

昭和35年に発見され、我が国の弥生時代の解明に、また、日本人の起源を解明するための貴重な資料が大量に得られました
平成2年に墓地公園としての整備が完成し、一般に公開されました。

 妙青寺(みょうせいじ)(豊浦町川棚湯町)

湧いてあふれる中にねている -山頭火

応永23年、(1416年)大内持盛によって創建された妙青寺は大内氏の滅亡の跡数奇な運命をたどり、明治2年まで、長府毛利藩によって支配されていました。行基作と伝えられる本尊観世音菩薩の他、本堂の裏には雪舟の築庭があります。

 岩谷の十三仏(豊浦町川棚中小野)

大内義隆公 供養地

露出した岩の上に、十三体の石仏が安置してあります。
「十三仏」は、亡くなった人を供養したり、十二支を守護する仏様です。十三仏の背中には十二支の名が刻んであります。